■歴史■

《明治・大正時代》

武士の表芸である弓術は時代の流れに伴い、江戸末期から明治にかけて大きく変遷を強いられました。

江戸末期の文久2年(1862年)、幕府での「弓術上覧の儀」が廃止され、講武所の教科目からも弓術が除外されてしまいます。

続く慶応3年(1867年)の大政奉還により、伝統的な弓術文化は幕藩体制・武士社会の崩壊と共に大きく衰退を余儀なくされました。

明治4年(1871年)には廃藩置県により藩校で行われていた武術教育も姿を消し、弓術に限らず武術全般で実用性が見いだされなくなり、武術衰退に拍車をかけました。

明治維新以前は、弓を引くことは一部の例外を除いて武士階級のみが許されていましたが、維新後は一般庶民でも弓が引けるようになり、急速に遊戯化・娯楽化が進む事となりました。

他方で既に遊興の道具としての弓矢は民衆の間で存在しており、盛り場での賭弓場が維新後の都市部で大流行しました。

賭弓場の多くは風俗営業であり、明治政府より規制を加えられるほど盛況になる等、明治初期には一般的に弓と言えば賭弓場を連想するほどに弓射文化は衰退していきました。

この様な世相に煽られ公的な弓道場が姿を消していく中、私設弓道場を開くなど弓術古来からの伝統を正しく引き継ごうとする真摯な弓術家の活動により、日本弓道の命脈・伝統文化は保たれていきました。

明治中期に入ると、初等教育の開始や徴兵制の徹底、日清・日露戦争での勝利等を背景に、愛国心の高まりと共に社会情勢は国家主義的思想が台頭しました。

国策により武道が利用され始め、国民は弓道を含めた各種武道・武士道の再認識・尊重をするようになりました。

このような社会風潮を受け明治28年(1895年)、京都在住の有識者により各種武道・武術を統括する団体として大日本武徳会が設立され、京都の平安神宮境内に建設された武徳殿を本部としました。

弓術をはじめとする各武術は、技術を目的とした武術を改め大和心涵養を目的とした武道とし、大正8年(1920年)武術専門学校を武道専門学校と改称、時を同じく弓術も弓道と改称されました。

反面、遊興的に『中りさえすれば良い』とした衰退期の反動から『射型さえ良ければ中らなくても良い』とする風潮や、過度な精神偏重が広まるという側面もありました。

また、大正から昭和初期にかけて、本多利実とその弟子達によって行われていた正面打起しの射法が大流行しましたが、後に利実の弟子達はこの射法をもって本多流を称する事になりました。

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